豪州米は、日本人が伝えた逆輸入米 豪州米「穣の一粒」のおいしさの歴史に、日本人あり。 豪州米は、日本人が伝えた逆輸入米 豪州米「穣の一粒」のおいしさの歴史に、日本人あり。

豪州米は
日本人が伝えた、逆輸入米。

高須賀穣氏が想いを込めて、育てた米。

松山藩の武士の息子として育った高須賀穣氏は18歳で結婚し、その後松山市選出の帝国議会議員として活躍後、知人の影響で、オーストラリアに渡りました。彼は広大な豪州の地で、米作りにチャレンジしようとしたのです。当時、オーストラリアには、米を作る農家はなく、設備も種もない中で、無謀ともいえる挑戦がはじまりました。

いくつもの困難を乗り越えて。

高須賀穣氏が政府から土地を割り当てられ米作りをはじめたのが1906年。家族で水路や田をつくり、米作りを試みるも羊が敷地に入る被害や、水不足や洪水、旱魃などさまざまな問題に直面し、何年もの間、失敗を繰り返しました。

ついに商業販売へ。

洪水をコントロールする堤防をつくるなど、米を作るための努力を続けた高須賀穣氏が米の商業生産に成功したのは1914年。米作りの挑戦をはじめてから8年後のことです。収穫した種子を、種子業者およびニュー・サウス・ウェールズ州農業省に販売。南オーストラリアで育成された米が商業販売されたのは初めてのことで、劣悪な環境下の中での偉業といえます。

豪州米の発展。

高須賀穣氏の籾は、リートンで最初に試みた米作りに使用され、その後、ジャポニカ米の研究に力が注がれることになりました。10年後、リートンの米づくりは、オーストラリアの農業の中で最も成功を収めた米産業へと発展しました。やがて、オーストラリアの米産業は、他国へ輸出するまでに成功したのです。

豪州米の父。

高須賀穣氏は1939年、継母の死により帰国、その後1940年に永眠しました。時を経て1991年には、オーストラリアに米作りを確立した貢献を表彰し、スワンヒル自治会によって記念碑が建てられるなど、豪州米の父として愛されています。

出典:「高須賀穣ーオーストラリア米のパイオニア」 ギャリー・ルウィス博士著